愛車CB750F BORD'OR2の軌跡

  1981年暮れも押迫った12月26日..横浜二俣川自動車試験場の一室に私は居た。
その部屋は、大型自動二輪車限定解除試験の合格者が集められていた。
同年の10月から限定解除試験を受け始め、6回目で合格したのである。
心底うれしかった..今でも覚えている。
そして、二日後に憧れだったCB750F BORD'OR2を買ったのである。
当時62万円程度で、下取りにXJ400を入れて、残りは24回分割であった。
地元のバイク屋にあったBORD'OR2を一目見て気に入った..一目惚れである。
以来、限定解除までの期間、いろいろ考えたが、すでに心は決まっていた。

1982年が明けて、CB750Fはすぐに家にやってきた。
年明けの寒さの中、喜び勇んで跨った憧れのCB750Fは大きかった。
とても寒い日であったが、恐る恐る走り出す。
ナナハン..自分がナナハンに乗っている実感が、ようやくわいてきた。
限定解除なんて無縁のもので、生涯乗る事ができない大きなバイクだと思っていた。
バイク雑誌の大型車の記事なんて無縁のページだと思っていた。
当時は、今のように誰でも手軽に教習所で大型自動二輪免許が取れる訳ではなかった。
厳しい試験を通過できた者だけが乗る事ができる二輪車のエリ−ト免許であった。
ゆえに..ライダー自体の質も高かった。 ナナハンに乗るということは..そういう事だった。

寒さの中をCB750Fを乗り回し春になった頃..少しだけ懐に余裕ができた。
いよいよ18万円のボルドールカウルを注文して装着した。
ボルドールカウルが付いたCB750Fは威圧感があり、他の国産車とは車格の違いを感じた。
その後..さらにオプションのオイルクーラーを取付け、ボルドール2は正規の姿になった。
この年の夏休みは、荷物を満載にして北陸路を3日間一人旅に出た。
金は無かった..テントを積んで、能登半島を巡り、敦賀湾から名神高速で戻った。
翌年の夏には、また一人旅で山陰山陽まで足を延ばし、秋吉台や萩などを見て回った。
他にも日光、紀伊半島、信州など、北は十和田湖から南は足摺岬まで、様々なところを走った。
最後のロングツーリングは親友のTの乗るRZ250と高速道路を山口まで走り、山陽路を戻る旅であった。
こんな具合にCB750Fとの歴史は、大半がロングツーリングの歴史である。
その間、旅行先でのトラブルとは無縁で長距離でも安定した走行性能は信頼性の高いもので、
走っていて「不安」を感じる事は一度も無く、さすがに耐久レーサーRCBの血筋を感じたものである。
 

1982年の夏 能登半島に単独でツーリング
宿泊はテントとシティホテルを併用して宿泊。
ここは富山の親不知海岸であるが、何しろ暑い!
朝自宅を出て、一日で七尾湾まで行くという強行軍であった。
CB750Fを買って初めての長距離ツーリングであった。

1983年の夏のツーリングは山陰山陽へ行く(倉敷にて)

1986年のGWは友人と四国に行く。

1989年にはボルドールカウリングを外した姿に戻る。

1990年伊豆の達磨山にて

1991年クラッチ板の交換の際に倉庫で写した。


 

車体整備については、色々な試行錯誤や失敗があった。
ボルドールカウルの装着、オイルクーラーの装着、サスペンションの交換、ステアリングダンパー装着..
自分なりに色々と工夫を凝らし、同時に苦労してきた。
最大の問題はオイルクーラーにあった。
当時の車検は厳しく、オイルクーラーが装着されていると車検が通らなかった。
車検の度にマフラーを外し、オイルパンを交換して車検を受けていた。
そして..3度目の車検のとき、マフラーフランジボルトを折ってしまった。
これは致命的であった..
さらに、あわててボルトを外そうとして、根元から折れたボルトが残ってしまった。
さんざん苦労してボルトを外したが、シリンダーヘッド側を相当痛める結果となり、ボルトは緩くしか
止まらなくなってしまい、フランジを強く締めると抜けてきてしまう状態だった。
これには悩んだが、修理方法は思いつかず、そのまま車検を受けて以来オイルクーラーを
装着することを止めてしまった。
マフラーフランジの不良を気にしながら、2年が経過して再び車検の時期がやってきた。
この頃には、CB750Fも少しづつ古くなってきて、私自身も少し「飽きと嫌気」がさしてきた。
車検を無事通過したが、なにか乗り続ける自身が薄らいできていた。
1989年..CB750Fが4回目の車検を受ける年、私はカワサキZXR750を購入した。
マフラーフランジに問題があり、先行き不透明なCB750Fに変わる次期ナナハンである。
ZXR750を買ってからは、CB750Fは車庫で眠っている事が多くなった。
そして最後の車検..5度目の車検がやってきた。
よく覚えていないが、マフラーを外す必要になり、久しぶりに問題のマフラーフランジを緩めた。
慎重に緩めてフランジを外して、私はびっくりした!
そこには、グラグラな弱いボルトが捩じ込んであったはず..
しかし、私の見たものは、ヘリサートで完全に修復されて取り付けられているボルトであった。
これには驚いたのと同時に大喜びした。前回の車検時に修復されたのである。
私は、この二年間、不要な不安を抱えてCB750Fを眺めていたのである。
そして..CB750Fは5度目の車検を通過した。
車検が完了し、戻ったCB750Fを見る私には、なんの不安も無かった。
しばらくして、数年間の憂鬱を吹飛ばすかのように、KERKER製の集合管を購入した。
1993年12月..CB750Fは12年間を走り切り、31800キロで距離計は停止した。

他にパーツなどについて
・ボルドールカウルはとても大きくカッコもいいが、車検の度に外すのは疲れてしまう。
 4度目の車検(1989)に取り外してから、装着するのを止めてしまった。
・オイルクーラーについては、上で書いた通りであるが、再装着したい部品である。
 しかし、トラブルの原因になるのも嫌なので、今後装着する予定は無い。
・マルゾッキのリアショックはカッコいいが、かなり固めで車高が上がってしまうので
 今の私にはきつくなってきている。これも、装着する予定は無い。
・武川のスタビライザーは今の車検では問題ないようなので、装着されている。
・KERKERの集合管は、爆音に耐えられなくなったので、装着予定は無い。
・ステアリングダンパーについては、脱着が簡単なので再装着した。

タイヤについて
・ノーマルタイヤ(BS)は、さすがに純正品だけあって、なんの不満も無く耐磨耗性も高かった。
・K300(DL)は、粘っこいタイヤだったが、安定感が高く信頼性は高かった。
・GT201(DL)は、食い付きはイマイチだが、CB750Fとの相性は良かった。
・ジェグラ(DL)は軽快な操縦性だったが、車体の振れが起きてしまって良くなかった。

そんなこんなで、12年間をなんとか無事に過ごしたCB750Fであったが、
5度目の車検が切れて以降は車庫の中で眠りについていた。
CB750Fが眠りについた翌年、ZXR750は私の元を去って行き、私は車庫で眠るCB750Fのエンジンを
時々始動し様子を見ていたが、ここ5年ほどはエンジンを始動した記憶は無かった。
そして..9年半の歳月を超えて、CB750Fは再び陽のあたる場所に出たのである。

私自身..CB750Fが5度目の車検から戻り、マフラーフランジボルトの取り付け問題が消えてから
かなりの予備パーツを揃えてきた。 自分が40歳を超えてから、再び動かす準備をしてきた。
しかし、実際には「予定は未定」であり、本当に動かすとは思っていなかった。
「動かせたら良いなぁ」と思っていただけである。
それが、なんの因果か予定が現実のものになってしまったのである。
冗談半分、本気半分、希望として考えていた事が今年実現した。
どうしてなのだろう..? 考えても答えは出ないだろうし、CB750Fが私の考えていた事を知る訳も無し。
しかし、今思うと、それが私のCB750Fの運命なのだろうとしか言えない。

約10年のブランクはあったが、走り出してしまえば、体が覚えてしまった操縦性である。
慣れるよりも、勝手に体が思い出すのである。
シフトのタイミングも、ペダルの位置も操縦性のクセも、私自身の体に染み付いた記憶がある。
走り出せば、自然にポジションが決まり、意識せずに走ることができるのだ。
ただ..以前のように活発に走る事はできない。
こればかりは仕方ない..自分が年をとってしまったのである。

再起した我がCB750F..まだまだ、走り続けることができる。

2003年05月

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